茜宿の前日譚

あの時、確かに新しい風を感じた。

50年前、人と人、人と島、
地域をつなぐかけはしとして
大島大橋が開通した時の人口は3万4千人。
待ちに待った夢の懸け橋の実現に島民は、沸いた。

この時、私は34歳3人の子供の手を引きながら、
新しい風を感じて橋を渡った。

島は風光明媚な陸続きとなり、
町も道路、下水道などの整備や
陸・海・空の資源を活用した
観光開発も積極的で
当時役場で島の広報担当だった私は
若者が住みたくなる町のお膳立てをした。

時には自費で大分県湯布院の青年部を訪ねて、
町おこしの助言を仰いだりもした。

「人づくりが町を作る」

彼らが町おこしに尽力する仲間のことを
明治維新の志士のごとく誇らしげに語ったことは
今でもよく覚えている。

しかし、ご覧の通り人口は減少、時代は流れて

今、

1万2千人の島で私は終を待つように過ごしていた。

齢は80を迎え、

「人づくりが町を作る」

なんてこと、とっくに忘れていた頃、
東京で月に半分、大島で月に半分暮らす
元・教師との出会いで生活は大きく変化した。

その人は東京の西荻窪にある
コーヒーショップでアルバイトしながら、
大島の耕作放棄地を整備して、
コーヒー豆の栽培をしているという。

その行動力や
仲間と共に道を切り開いていく
胆力に心を打たれた。

役場で町おこしの広報をしていた頃、
周防大島と湯布院は何が違うのか問い続けたが、
なすすべを見出せなかった。

ひとづくりが町を創ることだと確信しながら、
やりきれなかった。

その元・教師の姿を見て、
「やらなかった」の間違いであったことを
気づかされた。

その人のために
なにか力になれることはないかと考えた。

その人が東京に戻っている間は、
私が毎日責任をもって水やりをする。
害虫駆除は「おてのもの」だ。

また、コーヒー農園の近くにはトイレがなく
不自由しているという話を聞いて、
近くの古民家を購入し、
水洗トイレを設置した。

これがこの宿の始まりである。

衝動的に購入した建物の使い道は
トイレ以外考えていなかったが、
この成り行きのように
「人」が繋がる宿なんてどうだろう
と考えた。

そんな最近の爺の熱心な姿勢に感銘を受けたのか、
毎週末に愛媛県から中学生の孫が
手伝いに来るようになる。

まだ宿の名前も決まっていないころ、
孫が建物のそばの吉浦湾の夕焼けを見て

「茜色が綺麗だね」

と言った。

「茜宿」と名付けることにした。

「もう10年若けりゃ」

と、できない理由を齢のせいにしたことが、
私にはあるんです。

しかし元・教師との出会いをきっかけに
孫、友人やたくさんの協力者と繋がり、
開業に至りました。

茜宿を通して、
人の円環広がっていってほしいというのが、
爺の想いです。